7日(火)から11日(土)までの5日間、「松村謙三先生の精神を学ぶ会」の有志の県市議総勢12名で中国を訪問しました。上海・北京・紹興と巡り、富山空港に戻って早速本号を綴っています。日中平和友好条約締結40周年の節目に、松村先生の足跡を偲び、現下の中国の急速な発展を痛感したこの訪問について報告します。
これに先立ち、4日(土)は高岡市伏木で修復事業が続いている勝興寺の本坊部分の一般公開セレモニー、5日(日)は射水市海老江にて第3回富山湾ふれあいビーチフェスティバル開会式に参列しました。その後、元城端町長岩田忠正氏の叙勲祝賀会、となみ衛星通信テレビの創立30周年記念式典に出席し、6日(月)は日帰りで上京し、各省庁との打ち合わせをこなしました。
7日に富山空港から上海航空の旅客機で上海に向かい、僅か2時間余りの飛行時間で到着しました。私自身、訪中は13年ぶり3度目で、これまで訪れたのは大連、錦州のみであり、中国第一の都市が思いの外近い距離にあることを実感しました。空港と市内を結ぶリニアモーターカーにも往復体験乗車し、空路北京に入りました。
8日(火)朝は、今回の主目的である劉徳有元中国文化部副部長、孫暁燕 故孫平化 中日友好協会会長 令嬢との面会のため、宋慶齢基金会を訪ねました。訪問のアレンジは松村先生のお孫さんの濱本なほ子さんにお世話になり、同行頂きました。劉氏は、松村先生の第1~3次訪中の際に故周恩来総理との会談の通訳を務めるなど、当時のいきさつを詳しく知る方です。87歳という年齢を感じさせず、エピソードも交え、1時間半にわたりお話しを伺うことができました。1959年という東西冷戦中で両国に国交が開かれていない困難な状況下で、松村先生が敢えて訪中され、周総理との間で立場を異にしつつも、汽車の「車中会談」を通じて人と人の信頼関係を築いたことで、両国関係の土台が作られたことがわかりました。1962年の第2次訪中・会談で、両者は貿易促進で一致し、LT貿易と呼ばれる長期的な経済交流が開始されました。1964年の第3次訪中・会談で、両国はそれぞれ東京と北京に連絡事務所を開設し、新聞記者を交換するに至り、日中関係は、「半官半民」の段階へ進みました。国交回復は松村先生の没後となりましたが、劉氏からは、「周総理の外交力と、松村先生の心血の結果」との評価を頂きました。次いで、孫女史からは、当時の貴重な写真や書などを披露頂き、訪問団一同、松村先生の粘り強い努力に感銘を新たにしました。
北京では、郭沫若中日友好協会初代名誉会長の記念館(故居)と中日友好協会も訪問し、40周年を契機に、両国関係の発展へ向けて、議員の立場でも努力する決意を新たにしました。夕刻は、横井日本大使と懇談する機会を得、年率6%超の経済成長率を背景に、日進月歩で社会・経済が変化する中国の現状を伺いました。
9日(木)は中国政府文化旅遊部にて富山県の観光PRに努め、飛行機で杭州に降り、周総理の原籍地で南砺市(旧福光町)と友好姉妹都市の紹興市で譚人民代表大会常務委員会主任(市議会議長)を表敬・懇談しました。周総理や文学者魯迅の故居も訪ねましたが、経済発展の波は、大都市のみならず地方都市にも確実に押し寄せていると体感しました。10日(金)は急速に建設が進む新幹線で再び上海に入り、高さ400mを超えるオフィスビルが林立する中心部で、欧米諸国の旧租借地に残る建物がライトアップされた姿を目に焼き付け、11日に空路富山に無事戻りました。来週はお盆休みを頂くこととし、次号は衆議院予算委員会の東南アジア視察について報告する予定です。